< 山口公民館/山口まちづくりセンター >
当クラブの活動拠点である「山口まちづくりセンター」を紹介します。

山口公民館/山口まちづくりセンター
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山口地区の移り変わり略年表
黒字は「山口地区の移り変わり略年表」で、青字は管理人が追加したもの
時 代 ・ 年 で  き  ご  と

令和  
   
 
 
 
平成  
平成29年(2017)  山口観音で33年振りの御開帳。
 台風21号により山口中学校裏の崖がくずれる
平成26年(2014)  岩崎彫獅子舞が起源伝承400年を迎え瑞岩寺境内で盛大におこなわれる
平成24年(2012)  山口まちづくり推進協議会が誕生する
平成23年(2011)  山口公民館と出張所の組織が合体し、山口まちづくリセンターが開設される
平成17年(2005)  狭山湖運動場が改装されオープンする
平成16年(2004)  飯能所沢線の大六天交差点から岩崎交差点までが開通する
平成9年(1997)  山口貯水池堤体強化工事がはじまり、平成12年(2000)に完成する。
 西武球場に金属屋根が設置されドーム球場に変身する
平成7年(1995)  旧山口公民館を改修し、山国民俗資料館の開館と消防団第七分団の詰所を開設する
平成5年(1993)  山口公民館が現在地へ新築移転する
平成3年(1991)  トトロふるさと基金が上山口の雑木林をトトロの森1号地として取得する
平成2年(1990)  第1回シティマラソンが西武球場で開催される
昭和(戦後) 昭和61年(1986)  椿峰土地区画整理事業完成する。
 国民宿舎「湖畔荘」が閉鎖となる。
 上山口中学校の校舎落成式がおこなわれる
昭和60年(1985)  新交通システム西武山口線が開業する
昭和59年(1984)  上山口中学校が開校する。
 図書館椿峰分館が市内2番目の分館として開館する。
 おとぎ電車が廃止される
昭和57年(1982)  椿峰小学校が開校する
昭和56年(1981)  椿峰コミュニティ会館別館が開館する
昭和54年(1979)  狭山湖駅の駅名が「西武球場前駅」に変更される。
 狭山湖運動場が開設される
昭和53年(1978)  西武球場が上山口に建設され、西武ライオンズ球団のフランチャイズとなる
昭和51年(1976)  西武狭山線の西所沢駅―狭山湖駅の間に「下山口駅」が開設される
昭和50年(1975)  山口貯水池(狭山湖)が点検修理のため水を抜かれ湖底の姿があらわれる。
 椿峰土地区画整理事業がはじまる。
 老人憩いの家「さくら荘」がオープンする
昭和48年(1973)  泉小学校が開校する。
 山口公民館が移転し出張所と併設した建物が完成、業務を開始する
昭和44年(1969)  岩崎獅子舞保存会ができる。岩崎彫獅子舞が市無形民俗文化財に指定される
昭和38年(1963)  国民宿舎「湖畔荘」が完成し6月10日より業務を開始する。※湖畔荘の所在地は三ヶ島
昭和37年(1962)  山口小学校の所在地が大字山口1550番地に新校舎落成移転する
昭和34年(1956)  狭山スキー場がオープンする
昭和30年(1955)  山口中学校の独立校舎が大字山口1345に落成する。(新築移転)
昭和29年(1954)  山口公民館は大字山口1463番地に移転する
昭和28年(1953)  山口公民館が所沢市公民館設置条例に位置づけられ設立される
昭和26年(1951)  西武鉄道が狭山湖畔にユネスコ村を開設。狭山湖周辺が埼玉県立狭山自然公園となる。
 村山駅(その前は村山貯水池際駅)の駅名が「狭山湖駅」に変更される
昭和25年(1950)  市制施行により所沢市となる。学校も所沢市立山口小学校、山口中学校と改称する。
 西武鉄道が山口貯水池の愛称を募集した結果「狭山湖」と呼ばれるようになる
昭和22年(1947)  学制改革により、山口国民学校が山口小学校となる。校内に山口中学校が創立する。
 山口公民館運動指針が立案され、山口公民館が開館する
昭和21年(1946)  山口青年文化講座が開講される

昭和(戦前) 昭和18年(1943)  町村合併により、所沢町となる。山口国民学校は所沢町立となる
昭和16年(1941)  学制改革により山口村立山口尋常高等小学校が山口国民学校と改称する
昭和7年(1932)  山口貯水池通水式が執り行われる
昭和4年(1929)  上山口、勝楽寺などに住む282軒が移転を終え、貯水池の建設がはじめられる。武蔵野線山口支線(現西武狭山線)が開通する。山口貯本池建設起正式が行われる
大正 大正15年(1926)  東京市より水道第二拡張として山口村大字勝楽寺及上山口の一部に貯水池建設計画が持ち上がる。東京市吏員出張事務所が設けられ、物件調査・土地測量がはじまる
大正10年(1921)  山口村役場庁舎、大字上山口字下道端6番地ノ2(現氷川町町内会館)に新築移転する
大正9年(1920)  山口尋常高等小学校と西狭山尋常小学校を廃し、新たに山口尋常高等小学校が設立
明治 明治43年(1910)  明治高等小学校廃校。本校に高等科併置し、山口尋常高等小学校となる
明治35年(1902)  山口村、上山口村、勝楽寺村の3村が合併して山口村となる
明治28年(1895)  山口尋常小学校が開校する
明治25年(1892)  小手指と連合し北野に明治高等小学校が創立する。旧狭山学校(北広堂)を使用する
明治24年(1891)  東西狭山小学校に分かれ、荒幡の第二分教室は吾妻小学校へ編入される
明治22年(1889)  山口村、上山口村、勝楽寺村の3村が組合村となる
明治19年(1886)  山口・上山口・勝楽寺・荒幡の4か村聯合村立狭山小学校となる(山口の粕谷佐七方を仮校舎とされるも密厳院仮校舎との記録もある)
明治12年(1879)  勝楽寺学校が創立し、勝楽寺村大坊の薬師堂を仮校舎とする
明治8年(1875)  堀口村、大鐘村、新堀村、川辺村が合併して上山口村となり、菩提木村、氷川村、打越村、町谷村、山口堀之内村、岩崎村が合併して山口村となる
明治6年(1873)  北野,山口,上山口,3か村組合立狭山小学校を北野村(北広堂)に開設する

江戸 安政2年(1855)  山口谷村々の家数は、勝楽寺村106軒,堀口村47軒,大鐘村17軒,川辺村19軒,新堀村21軒,菩提樹村30軒,氷川村8軒,町谷村24軒,打越村19軒,山口堀之内村15軒,岩崎村66軒
元禄3年(1690)  町谷村で幕府代官により検地が実施される
延宝元年(1673)  大鐘村で幕府代官により検地が実施され、同5年にも菩提樹村・町谷村で実施される
寛文5年(1665)  新堀村で幕府代官による検地が実施され、同8年にも山口堀之内村で実施される
慶安2年(1649)  このころ岩崎村は宇佐美氏に代わり久貝氏、打越村は向坂氏、菩提樹村は松風氏が領主
慶長19年(1614)  このころ岩崎村の領主宇佐美氏が大坂冬の陣の帰途,京都で獅子頭を購入し,同村で獅子舞が始まると伝える。
 勝楽寺村の糟屋氏に代わり小林氏が領主になる
天正19年(1591)  このころ,糟屋氏が勝楽寺村の,長田氏が山口の内(川辺)の領主になる
 武蔵孫之丞が山口之内大鐘村・新井村(新堀か)の領主になり、武蔵孫左衛門が町屋村、久松氏が堀口村の領主となる
天正18年(1590)  徳川家康関東入国
 安土桃山  

室町 弘和3年(1383)  高清 の子 高治 と兵を挙げた父 山口 高実は、足利 氏満 と戦って討死し瑞岩寺に葬られる
   このころ祥雲山瑞岩寺(曹洞宗)創建される
吉野京都  
応安元年(1368)  武蔵平一揆で 山口 高清 が河越城に籠り敗北、山口城も 上杉 憲顕 に攻められ落城
鎌倉 元弘3年(1333)  新田 義貞 挙兵、小手指原の合戦、鎌倉幕府滅ぶ
   

 


建久元年(1190)  源頼朝,畠山重忠を先頭に上洛。山口一族はじめ多数の武蔵武士が加わる
保元元年(1156)  保元の乱で村山党の山口六郎家継ら多数の武蔵武士が源義朝に従軍する
   桓武平氏の流れをくむ[平 頼任]が村山党の祖となり、孫の家継が山口に住し山口を名乗った。
 平城京  
 飛 鳥  



  400年代  北野、山口地区に新たな集落が現れ<高峰遺跡>、古墳がつくられる<膳棚東遺跡>
前3000年~1000年  大規模場集落が出現する<膳棚遺跡、高峰遺跡>

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